吉原遊郭の春画

吉原の歴史は実はかなり古く、今より400年ほど昔に遡ります。江戸時代・西暦1600年頃の元吉原(現在の日本橋界隈)の風呂屋者(湯女)に端を発し、遊郭として時の政権江戸幕府より公許されたのが始まりです。その後、新吉原(現在の浅草界隈)への移転などを経て、1957年「売春防止法」施行に伴い、その歴史は幕を閉じますが、「トルコ風呂」「高級サウナ」「特殊浴場」などと呼び名を変え、現在はソープランドとして風俗営業特例処置条例により、東京都台東区千束四丁目16~32番と41~48番地区のみ営業が許されたソープランド街が現在の通称・吉原と呼ばれており、女性のパワースポットとして今も人気の吉原神社もここにあります。


吉原炎上や吉原裏同心という人気の映画や舞台・TVドラマなどもありその存在を聞き知った方もおられると思います。岐阜金津園・川崎堀之内・大阪飛田新地・北海道すすきの・滋賀雄琴・熊本中央街など日本の各地方都市にも色街は存在しますが、東京(江戸)の吉原遊郭ほど色濃く大規模に栄えた性風俗街は他に類を見ません。

東京都台東区千束4丁目の全体マップ

吉原遊郭の遊女・花魁

昔の花魁の写真

吉原といえば誰もが思い浮かべる遊郭の花魁ですが実はそれはほんの一握り。遊郭の中で湯女(ゆな)として接待する女性や飯盛女(めしもりおんな)を総称して遊女と呼び、その中でも特に地位の高い高級遊女のみが花魁(おいらん)と呼ばれていました。花魁は遊びに来る客よりも位が高いとされ、茶屋で豪勢に金を使い取り次いでもらって初めて実際に会うことができました。これは現在の情報喫茶の由来と言われています。初会は離れた処から口も利かず客側が花魁に品定めされるため芸者を大勢呼び派手に遊ぶことでその財力等をアピールし、3度ほど通って、花魁のお眼鏡にかなって初めて肌を重ね馴染みの客となれますが、それ以降ほかの遊女と遊ぶことは浮気とみなされ、客が厳しく非難されたといいます。

遊郭での指名は、
  • 1度目=初会
  • 2度目=裏を返す
  • 3度目=馴染み
と呼ばれ、江戸の落語などでは「裏を返さぬは客の恥。馴染みを付けさせぬは花魁の恥。」と言われ、当時初会料金は割安に設定されていたため1度目だけ遊んで裏(義理)を返さないのは江戸っ子の恥とされていた様です。

花魁候補ともなると、教養や品格も備えていなければならず、書道・茶道・和歌・琴・三味線などの芸事まで徹底して学びました。遊郭の花魁は今では想像もつかないほど優遇され大切にされていたようですが、遊郭の規律やしきたりなども鑑みればそれに相応しいだけの努力や覚悟を持っていたのも事実です。

それを思えば、
現代の遊郭といえるソープランドは働く側も遊ぶ側もずいぶん様変わりしたと言えそうです。


ソープ嬢は現代の湯女

現代の湯女といえるソープ嬢は、昔の遊郭の遊女のように生涯の生業という覚悟をしている訳でもありませんし村に囲われている訳でもありません。しかし、女の子が風俗で働くという事に並々ならぬ決意や気構えが必要なことは今も昔も変わりはありません。風俗嬢という仕事を選んだ理由や切っ掛けは各々様々でしょうが、少なくとも、色々な弊害や障害がある中で歯を食いしばって男性たちにひとときの夢と癒しを与えてくれているのです。安くはない代金を支払うからといって、あまりに軽くぞんざいに扱ってはいませんか?

「豪遊しろ」とは言いません。
「浮気するな」とも言いません。

花魁との接見のように女性側からお客様への接客を断るなどということもありませんが、せめて逢瀬の間くらいはお互いが気持ちよく過ごせるよう、ほんの少しだけでも配慮してください。きっとその方があなたの心も気持ちが良いはずです。

男性を癒すために働いてくれている事そのものにせめて感謝や労いの気持ちくらい持っても良いのではないでしょうか。


吉原の今

現在ソープランド店は東京千束界隈だけでもおよそ150店ほど軒を連ねていますが、条例で保護されているのは基本的には現存する店だけで新たに出店する事は許されていないため残念ながらこのままでは時間とともにゆっくりと衰退してゆく流れにあります。とはいえ遊郭のような性風俗業の需要がなくなる事は決してないので、時空を超える舞姫のようにあるいは姿形を変えなにかしらのものになってゆくことでしょう。

着物姿でキセルをふかす今の吉原ソープ嬢

これまでの歴史と 、
これからの未来を想い、
今の吉原で一時の夢を楽しみましょう。

Yoshiwara.Link